雪の降る街を…中田喜直讃
2009年 03月 04日
兄弟!
唱歌『めだかの学校』や『夏の思い出』の作曲で知られる中田喜直。我が朝固有の幻想風景を題材に、洒脱な和声進行によってそれを洋の東西を跨いだ芸術作品に仕立て上げた類い希なる音楽家である。因みに『早春賦』を以て未だ凡く人口に膾炙している中田章はその実父。親子鷹、と云うべきか。
我らが故郷、ゆふいんでの音楽祭期間中「浪速のグレイダーマン」異、兄弟たるかいやんが、アートホールでの無料演奏会でその『夏の思い出』の洋琴独奏版をして居合わせた老若男女の郷愁を搔き立てているのはみんなが知っての通り。某御婦人なぞ、目頭を熱くさせていたのはかいやんの技量も去ること乍、中田喜直が中田喜直たる所以の賜。その御婦人は知るや知らずや、喜直には夫れ丈のみならず傾聴すべき作品は山とある(既存の『めだかの学校』がモネの絵画が如く印象的に昇華する変奏曲や、『汽車は走るよ』と云った優れた描写音楽の等)。私は渠の芸術に傾倒する処は大きいが
「煙草を吸うことは百害あって一利なし」
と、大の煙草嫌いで嫌煙権運動にも熱心だったらしく、その点丈はどうしても感応できそうにない。呵呵。この人、お酒はどうだったのかしらん。
中田喜直は大正12年、東京は渋谷の生まれ。彼のショパンに憧れピアニストとなるべく東京音楽大学(現在の東京藝術大学)に入学するも時正に太平洋戦争の真っ只中。一時は帝国陸軍に志願、特別攻撃隊として一命を擲つ覚悟であったが、その指令は青年喜直の元へは下されることはなかった(父親の高名さ故か)。
戦後は発意に還りピアニストの道を歩まんと努めるが、自らの手の大きさに鑑みそれを断念。以後は作曲家として生きよう、と決意したらしい…とは電脳界の大海原を彷徨って得た来歴である。
先に「我が朝固有の幻想風景」と駄文を草したが、こうして喜直の半生を知るに至って思えらく、私は鶴田浩二(こりゃまた古いね)が『同期の櫻』を涕泣と共に歌った姿をその音律の中に見いだすに吝かではない。
黄昏時、雨が雪に代わった東都。明日の朝暾は束の間の銀世界が広がるだろう。窓に目を遣りつつ、中田喜直の名調子『雪の降る街を』を杯間に吟じようか。
―遠い国から落ちてくる この思い出を この思い出を いつの日か包まん
あたたかき幸福のほほえみ―
街灯に照らし出された白い花弁たちが、今夜は少しく滲んで見える。
唱歌『めだかの学校』や『夏の思い出』の作曲で知られる中田喜直。我が朝固有の幻想風景を題材に、洒脱な和声進行によってそれを洋の東西を跨いだ芸術作品に仕立て上げた類い希なる音楽家である。因みに『早春賦』を以て未だ凡く人口に膾炙している中田章はその実父。親子鷹、と云うべきか。
我らが故郷、ゆふいんでの音楽祭期間中「浪速のグレイダーマン」異、兄弟たるかいやんが、アートホールでの無料演奏会でその『夏の思い出』の洋琴独奏版をして居合わせた老若男女の郷愁を搔き立てているのはみんなが知っての通り。某御婦人なぞ、目頭を熱くさせていたのはかいやんの技量も去ること乍、中田喜直が中田喜直たる所以の賜。その御婦人は知るや知らずや、喜直には夫れ丈のみならず傾聴すべき作品は山とある(既存の『めだかの学校』がモネの絵画が如く印象的に昇華する変奏曲や、『汽車は走るよ』と云った優れた描写音楽の等)。私は渠の芸術に傾倒する処は大きいが
「煙草を吸うことは百害あって一利なし」
と、大の煙草嫌いで嫌煙権運動にも熱心だったらしく、その点丈はどうしても感応できそうにない。呵呵。この人、お酒はどうだったのかしらん。
中田喜直は大正12年、東京は渋谷の生まれ。彼のショパンに憧れピアニストとなるべく東京音楽大学(現在の東京藝術大学)に入学するも時正に太平洋戦争の真っ只中。一時は帝国陸軍に志願、特別攻撃隊として一命を擲つ覚悟であったが、その指令は青年喜直の元へは下されることはなかった(父親の高名さ故か)。
戦後は発意に還りピアニストの道を歩まんと努めるが、自らの手の大きさに鑑みそれを断念。以後は作曲家として生きよう、と決意したらしい…とは電脳界の大海原を彷徨って得た来歴である。
先に「我が朝固有の幻想風景」と駄文を草したが、こうして喜直の半生を知るに至って思えらく、私は鶴田浩二(こりゃまた古いね)が『同期の櫻』を涕泣と共に歌った姿をその音律の中に見いだすに吝かではない。
黄昏時、雨が雪に代わった東都。明日の朝暾は束の間の銀世界が広がるだろう。窓に目を遣りつつ、中田喜直の名調子『雪の降る街を』を杯間に吟じようか。
―遠い国から落ちてくる この思い出を この思い出を いつの日か包まん
あたたかき幸福のほほえみ―
街灯に照らし出された白い花弁たちが、今夜は少しく滲んで見える。
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▲ by yufuin-brothers | 2009-03-04 00:04 | 音楽よもやま話