落款階梯
2008年 08月 28日
兄弟!
東都は神田に書画用品を扱う栄豊齋という名店があります。
如何しても新たな落款が必要になり、その材料を求め其処へ寄ってみたら……どれもこれも随分安いので吃驚しました。なんだい、高いんじゃないなら寧ろ喜べよ、等と云う事莫れ。
落款の材料たる天然石は大概が清国、否、中華人民共和国産なのを皆さんご存じでしたか。
近来、市場経済システムの導入により未曾有の好景気に沸く支那、基、中国ですが、その煽りが石っころまで波及しているらしく、その価格がここ半年で倍に垂々としているのです。それも今までよりも質が良くなり値段が上がるのはまぁ仕方の無い事としても、明らかに品質が下がって値丈が跳ね上がっているのですよ。中国製の製品を多く商う栄豊齋のご主人も全く困った話だ、と零しつつ
「だからね、家は以前に仕入れたものはその儘の値段にしています。そうじゃないと家を信用して来て下さるお客さんに申し訳がない……。それに見て下さい、これ。最近仕入れたものなんですが酷いもんでしょ」
もっと話を聞きたかったのですが、時悪くお店の電話が鳴り出して……。
あたしが経済に明るかったら何故、こんな現象が起こるのかを分析してみたいのですが、生憎と不経済な身の上……呵呵。そこで今宵は涙を飲んで落款のお話をしようと思います。題して『落款階梯』の一席。
書画に用いる印を落款と云う。
落は、決まりが着く、落ち着く。款はしるす、金石などに文字を刻むと謂う意で、作品が完成した証、又その喜びを表す為に押すものである。因って、私達が普段用いるはんことは一寸用途が違うのは勿論であり、書画の一部としてその印影にも趣をもたせなければならない。その為、古今の文人墨客は様々な意匠を込め印面に文字を彫り込むのだが、その行為を篆刻と謂い、これも重要な書の一分野を成す。
篆とは書体の意味で、それを刻す処から篆刻と云う。
秦の政王が全中国を征し、自らを皇帝(始皇帝と云うのは没後の諡(おくりな))と称したのが紀元前221年。その内政統治の根幹として全国均一の度量衡を欽定したが、その施策の中に今まで地方によって区々であった文字の統一がある。漢以前の周王朝で使われていたものを大篆と云うのに対し、その際新たに制定されたのが小篆、或いは秦篆とも云う。詰まり落款とは漢時代の字体に依って刻された、専ら書画に用いる印の事なのである。
落款は一顆、二顆と数え、冠帽印、姓名印、雅号印を以て組とする。これを三顆一対と称し、文人墨客には必携の文房具(文房とは書斎の事)である。
冠帽印とは書画の筆頭を示す印で、各々好みの文字や文章を用いる。姓名印は以て辞の如し。雅号印は自身の雅号(因みにアンバサダーの雅号は翠柳軒)を彫り込む。大概は署名の下に姓名印、雅号印の順で押し上記の役割を担う。
この他に遊印というものがあるが、これには三顆の様な決まり事は無く、好きな書体や図案を自由に用い、作品に因っては姓名印や雅号印の変わりにする事も屡々見受けられる。
落款の素材は金、銅、鉄等の金属類、象牙や鹿角、竹や黒檀等の木材と多岐に及ぶが、多くは石、それも中国で採れる天然石が中心である。高価なものは玉と呼ばれる中国特産の宝石(歴代皇帝の印は玉に刻してあるため玉璽という。因みに現在、天皇の印、即ち御璽は金である)から、数百円で求められる廉価なもの迄あり、またその硬度も鑿と金槌で無ければ彫れないものから、印刀(篆刻に用いられる彫刻刀の様なもの)で擦った丈でも刻せるもの迄ある。更に、印の側面や紐、即ち印のつまみ部分に彫刻を施してあるものもある。
写真は巴林石(中国の巴林で産する代表的な印材)に象の紐が彫刻されたもの。
はんこには朱肉だが、落款には朱泥を用いる。これは人工的な染料でなく、天然の泥を加工したもので、矢張り中国特産である。落款は朱が主だが、作品に因り青や白、黄等を充てる(でも余り良いものではない)。
写真は北京七宝の印合(印泥を入れる容器)に入った朱泥。
印面を彫った処は白くなり、そうでない部分は朱になるので、文字をその儘刻すと白く写る。これを白文、或いは陰文、陰刻と云い、逆に筆画の周りを刻すことで文字が朱になったものを朱文、又は陽文、陽刻と云う。三顆一対の場合、一般的には冠帽印と姓名印は白文、雅号印には朱文で刻す(文字や意匠によりそれを逆転することも儘ある)。
写真上は『庖』(台所の意)の白文。下は『鸛圓(かんえん)蔵書』の朱文で字体は小篆(双方ともアンバサダー作)。
まぁ、落款に関してはこれ位の知識があれば、或る程度は大丈夫かな。書画の展覧会に行き「この落款は一寸弱いな」なんて呟けば、お、こいつは相当の目利きだな、と周りから大いに買いかぶって貰える事請け合いです。呵呵。でも、余り調子に乗るとボロが出ますのでご留意あれ……なんてことするのは拙丈かも知れませんけど。呵呵。然し、当代一の知識人、加藤周一先生の言葉を要約すると
「知ったかぶり程文化の向上に大切なものはない。それをしている内に本当にそれを知る機会も増える」
と。皆さん、芸術の秋を目の前に、大いに文化的行為の資質を磨こうではありませんか。呵呵。
ギョエテとは俺の事かとゲーテ云い
東都は神田に書画用品を扱う栄豊齋という名店があります。
如何しても新たな落款が必要になり、その材料を求め其処へ寄ってみたら……どれもこれも随分安いので吃驚しました。なんだい、高いんじゃないなら寧ろ喜べよ、等と云う事莫れ。
落款の材料たる天然石は大概が清国、否、中華人民共和国産なのを皆さんご存じでしたか。
近来、市場経済システムの導入により未曾有の好景気に沸く支那、基、中国ですが、その煽りが石っころまで波及しているらしく、その価格がここ半年で倍に垂々としているのです。それも今までよりも質が良くなり値段が上がるのはまぁ仕方の無い事としても、明らかに品質が下がって値丈が跳ね上がっているのですよ。中国製の製品を多く商う栄豊齋のご主人も全く困った話だ、と零しつつ
「だからね、家は以前に仕入れたものはその儘の値段にしています。そうじゃないと家を信用して来て下さるお客さんに申し訳がない……。それに見て下さい、これ。最近仕入れたものなんですが酷いもんでしょ」
もっと話を聞きたかったのですが、時悪くお店の電話が鳴り出して……。
あたしが経済に明るかったら何故、こんな現象が起こるのかを分析してみたいのですが、生憎と不経済な身の上……呵呵。そこで今宵は涙を飲んで落款のお話をしようと思います。題して『落款階梯』の一席。
書画に用いる印を落款と云う。
落は、決まりが着く、落ち着く。款はしるす、金石などに文字を刻むと謂う意で、作品が完成した証、又その喜びを表す為に押すものである。因って、私達が普段用いるはんことは一寸用途が違うのは勿論であり、書画の一部としてその印影にも趣をもたせなければならない。その為、古今の文人墨客は様々な意匠を込め印面に文字を彫り込むのだが、その行為を篆刻と謂い、これも重要な書の一分野を成す。
篆とは書体の意味で、それを刻す処から篆刻と云う。
秦の政王が全中国を征し、自らを皇帝(始皇帝と云うのは没後の諡(おくりな))と称したのが紀元前221年。その内政統治の根幹として全国均一の度量衡を欽定したが、その施策の中に今まで地方によって区々であった文字の統一がある。漢以前の周王朝で使われていたものを大篆と云うのに対し、その際新たに制定されたのが小篆、或いは秦篆とも云う。詰まり落款とは漢時代の字体に依って刻された、専ら書画に用いる印の事なのである。
落款は一顆、二顆と数え、冠帽印、姓名印、雅号印を以て組とする。これを三顆一対と称し、文人墨客には必携の文房具(文房とは書斎の事)である。
冠帽印とは書画の筆頭を示す印で、各々好みの文字や文章を用いる。姓名印は以て辞の如し。雅号印は自身の雅号(因みにアンバサダーの雅号は翠柳軒)を彫り込む。大概は署名の下に姓名印、雅号印の順で押し上記の役割を担う。
この他に遊印というものがあるが、これには三顆の様な決まり事は無く、好きな書体や図案を自由に用い、作品に因っては姓名印や雅号印の変わりにする事も屡々見受けられる。
落款の素材は金、銅、鉄等の金属類、象牙や鹿角、竹や黒檀等の木材と多岐に及ぶが、多くは石、それも中国で採れる天然石が中心である。高価なものは玉と呼ばれる中国特産の宝石(歴代皇帝の印は玉に刻してあるため玉璽という。因みに現在、天皇の印、即ち御璽は金である)から、数百円で求められる廉価なもの迄あり、またその硬度も鑿と金槌で無ければ彫れないものから、印刀(篆刻に用いられる彫刻刀の様なもの)で擦った丈でも刻せるもの迄ある。更に、印の側面や紐、即ち印のつまみ部分に彫刻を施してあるものもある。
写真は巴林石(中国の巴林で産する代表的な印材)に象の紐が彫刻されたもの。
はんこには朱肉だが、落款には朱泥を用いる。これは人工的な染料でなく、天然の泥を加工したもので、矢張り中国特産である。落款は朱が主だが、作品に因り青や白、黄等を充てる(でも余り良いものではない)。
写真は北京七宝の印合(印泥を入れる容器)に入った朱泥。
印面を彫った処は白くなり、そうでない部分は朱になるので、文字をその儘刻すと白く写る。これを白文、或いは陰文、陰刻と云い、逆に筆画の周りを刻すことで文字が朱になったものを朱文、又は陽文、陽刻と云う。三顆一対の場合、一般的には冠帽印と姓名印は白文、雅号印には朱文で刻す(文字や意匠によりそれを逆転することも儘ある)。
写真上は『庖』(台所の意)の白文。下は『鸛圓(かんえん)蔵書』の朱文で字体は小篆(双方ともアンバサダー作)。
まぁ、落款に関してはこれ位の知識があれば、或る程度は大丈夫かな。書画の展覧会に行き「この落款は一寸弱いな」なんて呟けば、お、こいつは相当の目利きだな、と周りから大いに買いかぶって貰える事請け合いです。呵呵。でも、余り調子に乗るとボロが出ますのでご留意あれ……なんてことするのは拙丈かも知れませんけど。呵呵。然し、当代一の知識人、加藤周一先生の言葉を要約すると
「知ったかぶり程文化の向上に大切なものはない。それをしている内に本当にそれを知る機会も増える」
と。皆さん、芸術の秋を目の前に、大いに文化的行為の資質を磨こうではありませんか。呵呵。
ギョエテとは俺の事かとゲーテ云い
by yufuin-brothers | 2008-08-28 22:34 | アンバサダー随感録