夜半の寝酒~椿説納豆談義
2008年 03月 03日
兄弟!
スミコさんからの珍味に頗る興味を示しつつ、本朝は東都の片隅に寓居するアンバサ
ダーは今宵もお銚子の調子に呷られて、ぐるぐると何事か唸り続ける電脳を騙し騙しに
弄び乍駄句を連ねることと致しましょう。
我等が浪花なる甲斐やんは梅の香に誘われ其の華蔭に佇み、徒然なるままに一杯の
善哉を賞翫したりと云々。江戸にては夫を汁粉となむ申しける。其は専ら女兒が好み、又
下戸連にては小豆の善悪、或いは小紫の海に浮かびたる餅の焼色具合に拘る。是正
に以て善哉なる真名を訓すれば「ヨキカナ」と申すに吝かならずや。鑿手を奮う酒客が吐
き散らす酔言に比ぶれば、いと目出度き風情や有らむ……。
この出典はを尋ねればアンバサダーなる愚夫の世迷言にて、悪文の手本としては天下
一品に然り。呵呵。さて、今宵は鑿手、即ち上戸の末席を汚す私めが好む酒肴の一つ
『納豆』の薀蓄を一寸お喋り致しましょうか。
大正の御世に「星岡茶寮」等で美食家の名を縦(ほしいまま)にした北大路魯山人が著し
た『魯山人味道』の中に「納豆の拵え方」と云う一文がある。少々長文だが、敢えてご紹介
しようと思う。
『ここでいう納豆の拵え方とは、ねり方のことである。このねり方がまずいと、納豆の
味が出ない。納豆を器に出して、それになにも加えないで、そのまま、二本の箸でよくね
りまぜる。そうすると、納豆の糸が多くなる。蓮から出る糸のようなものがふえて来て、か
たくて練りにくくなって来る。この糸を出せば出すほど納豆は美味しくなるのであるから、
不精をしないで、また手間を惜しまず、極力ねりかえすべきである。
かたく練り上げたら、醤油を数滴落としてまた練るのである。また醤油数滴を落として練
る。要するにほんの少しずつ醤油をかけては、練ることを繰り返し、糸のすがたがなくな
ってどろどろになった納豆に、辛子を入れてよく攪拌する。この時、好みによって薬味(ね
ぎのみじん切り)を少量混和すると、一段と味が強くなって美味い。(中略)
最初から醤油を入れてねるようなやり方は、下手なやり方である。納豆食いで通がる人
は、醤油の代わりに生塩を用いる。納豆に塩を用いるのは、さっぱりして確かに好ましい
ものである。しかし、一般にはふつうの醤油を入れる方が無難なのもが出来上がるであ
ろう。』
(出典『魯山人味道』1980年4月10日中央公論社発行。pp170~171)
私なぞが云うのも烏滸がましいけれど、確かにこうして誂えた納豆は深みがあって一寸
乙なものに成り、運良くその黄昏に鮪の赤身があれば「マグロ納豆」として立派な一品であ
り賓客に振舞っても全く恥ずかしくない。又、油揚げがあれば其れを袋にして斯くなる納豆
を詰め、フライパンやオーブンで馨しく焼目が付いたら醤油を垂らし熱い内を遣っても大牢
の滋味となる。
先に挙げた文章の中で魯山人は、納豆へ化学調味料の使用を誡め、その一級品は仙
台や水戸産だと断言していた。これが書かれたのが昭和7年だから、現在と同じくして論
ずるのはいけないのだろうが、然し水戸の納豆は確かに美味い。それも藁苞(わらづと)
で、昔乍の製法を以って作られたものを見掛けると、私はどんな艱難辛苦があろうとも買
って帰る。何故なら普段に食べているプラスチック容器のものとは各段にその香味共優れ
ているからだ。
今夜はこの得難い珍味が到来したので、それを肴に晩酌の悦に浸っている。その余勢を
借り謎掛けを一つ。
『納豆と懸けて、花魁の寝技と解く。その心は……ねればねるほどうまくなる』
古の『11PM』を彷彿とさせますな。まぁ、御愛嬌、々々々。お粗末様でした。呵呵。
スミコさんからの珍味に頗る興味を示しつつ、本朝は東都の片隅に寓居するアンバサ
ダーは今宵もお銚子の調子に呷られて、ぐるぐると何事か唸り続ける電脳を騙し騙しに
弄び乍駄句を連ねることと致しましょう。
我等が浪花なる甲斐やんは梅の香に誘われ其の華蔭に佇み、徒然なるままに一杯の
善哉を賞翫したりと云々。江戸にては夫を汁粉となむ申しける。其は専ら女兒が好み、又
下戸連にては小豆の善悪、或いは小紫の海に浮かびたる餅の焼色具合に拘る。是正
に以て善哉なる真名を訓すれば「ヨキカナ」と申すに吝かならずや。鑿手を奮う酒客が吐
き散らす酔言に比ぶれば、いと目出度き風情や有らむ……。
この出典はを尋ねればアンバサダーなる愚夫の世迷言にて、悪文の手本としては天下
一品に然り。呵呵。さて、今宵は鑿手、即ち上戸の末席を汚す私めが好む酒肴の一つ
『納豆』の薀蓄を一寸お喋り致しましょうか。
大正の御世に「星岡茶寮」等で美食家の名を縦(ほしいまま)にした北大路魯山人が著し
た『魯山人味道』の中に「納豆の拵え方」と云う一文がある。少々長文だが、敢えてご紹介
しようと思う。
『ここでいう納豆の拵え方とは、ねり方のことである。このねり方がまずいと、納豆の
味が出ない。納豆を器に出して、それになにも加えないで、そのまま、二本の箸でよくね
りまぜる。そうすると、納豆の糸が多くなる。蓮から出る糸のようなものがふえて来て、か
たくて練りにくくなって来る。この糸を出せば出すほど納豆は美味しくなるのであるから、
不精をしないで、また手間を惜しまず、極力ねりかえすべきである。
かたく練り上げたら、醤油を数滴落としてまた練るのである。また醤油数滴を落として練
る。要するにほんの少しずつ醤油をかけては、練ることを繰り返し、糸のすがたがなくな
ってどろどろになった納豆に、辛子を入れてよく攪拌する。この時、好みによって薬味(ね
ぎのみじん切り)を少量混和すると、一段と味が強くなって美味い。(中略)
最初から醤油を入れてねるようなやり方は、下手なやり方である。納豆食いで通がる人
は、醤油の代わりに生塩を用いる。納豆に塩を用いるのは、さっぱりして確かに好ましい
ものである。しかし、一般にはふつうの醤油を入れる方が無難なのもが出来上がるであ
ろう。』
(出典『魯山人味道』1980年4月10日中央公論社発行。pp170~171)
私なぞが云うのも烏滸がましいけれど、確かにこうして誂えた納豆は深みがあって一寸
乙なものに成り、運良くその黄昏に鮪の赤身があれば「マグロ納豆」として立派な一品であ
り賓客に振舞っても全く恥ずかしくない。又、油揚げがあれば其れを袋にして斯くなる納豆
を詰め、フライパンやオーブンで馨しく焼目が付いたら醤油を垂らし熱い内を遣っても大牢
の滋味となる。
先に挙げた文章の中で魯山人は、納豆へ化学調味料の使用を誡め、その一級品は仙
台や水戸産だと断言していた。これが書かれたのが昭和7年だから、現在と同じくして論
ずるのはいけないのだろうが、然し水戸の納豆は確かに美味い。それも藁苞(わらづと)
で、昔乍の製法を以って作られたものを見掛けると、私はどんな艱難辛苦があろうとも買
って帰る。何故なら普段に食べているプラスチック容器のものとは各段にその香味共優れ
ているからだ。
今夜はこの得難い珍味が到来したので、それを肴に晩酌の悦に浸っている。その余勢を
借り謎掛けを一つ。
『納豆と懸けて、花魁の寝技と解く。その心は……ねればねるほどうまくなる』
古の『11PM』を彷彿とさせますな。まぁ、御愛嬌、々々々。お粗末様でした。呵呵。
by yufuin-brothers | 2008-03-03 00:20 | 燕燕訓