実録・甲斐洋平奮闘記〔第1章〕―門出―
2008年 04月 24日
兄弟!
今日から何度かに渡って、19日の模様を書いて行こうと思います。
本当ならもう少し頭の中で数々の事供を整理し、熟成したいのですが、世界中の兄
弟姉妹、親類縁者の皆様の甲斐やんへのお気持ちを考え、敢えて書き進めることにし
ました。全く拙い駄文ですが、何卒御容赦ください。
※ ※ ※
木曜日に上京して以来、演奏会前の重圧に押しつぶされそうになって、練習以外の
自分の事も御座なりになり乍も、懸命に鍵盤と格闘している甲斐やんが疲労で腫れぼ
ったくなった眼を私に向け
「あのな、アンバサダーやん。俺が大阪でピアノを教えている子がいるんやけど、その
子電車が大好きやねん。先生、東京行くんやったらあっちで一番格好良い電車の写真
とか撮って来てくれへん、って頼まれて……。東京で今一番格好良い電車ってどんなん
やろ」
「そうさな、おいらが今一番気に入っているのは先月より小田急線で走り出した『青いロマ
ンスカー』だね。あれは格好良いぞ」
「そうなんか。俺、その電車に乗れるかな」
「おいおい甲斐の字、今そんな事考えちゃいけねえな。あたしがお前さんの代わりにその
写真でも何でも撮って来ようじゃねえか」
「ほんまに有り難う。若しよかったらその電車の絵葉書なんかがあったら買ってきて欲し
いんやけど……」
「おお、承知した。心配は要らねえよ。任せてもらおうじゃねえか」
「有り難う。安心したわ」
そう言い残し、練習を再開した甲斐やんの側で、洋ちゃんからこんなこと頼まれたので
す、とミエコさんに話した。
「甲斐さんて、本当に優しいのね。自分が今あんなに苦しんでる最中なのに……」
昨日頼まれた通り、19日9時13分北千住発の第21特別急行「メトロはこね」に乗り込
んだ。安閑とする間もなく車内の写真を撮ったり、デッキで発車音を録ったり、その新型車
両の模型をボイに持って来させたりしている内、町田に着いた。
車で駅迄迎えに出て呉れたミエコさんに
「洋ちゃん、昨夜は寝られたのかしら」
「余り左右でもなかったみたい……私もプログラムの構成や何かで」
「寝てないのですか」
「うん……でも大丈夫。アンバサダーさんだって寝られなかったんじゃないの」
「えへへ。どうも寝着かれなくって」
「やっぱりねぇ」
未だ朝の余韻を残す綺羅綺羅した街の風景が、今日は何処となく意地らしい。
「洋ちゃん、おはよう。例の物、茲に置くぜ」
「……」
一心不乱、何かに憑かれた様に鍵盤を叩く甲斐やんの背中には、苦悩と焦燥が渦を巻
いている。然し、叩き出す音色からは確実にこの数日間の成果が顕れていた。
「ミエコさん、洋平ちゃん随分よくなりましたね」
「そうね、そうよね……。あ、甲斐さん其処の処、もう一度ゆっくり弾いてみて」
と、尽かさずミエコさんはピアノに駆け寄る。ド・ソ・ミ・ソ……そうそう、一つひとつの鍵盤
をもっとしっかり押さえて……。
「……」
「其処、音が違ってます。甲斐さん、もっとゆっくり、ゆっくり弾いてみましょう」
「はい……。ああ、あかん。俺、あかんわ……」
「いいのよ、大丈夫。甲斐さん、一寸深呼吸してみましょうか」
苦しそうに天を仰いだ甲斐やんの目には明らかに悔悟の涙が浮かんでいた。気の毒で見
ているのが辛い。でもこれは表現者として今夜の主役として避けて通れない道なのだ。甲
斐やん、負けるな頑張れ、頑張ってくれ……私の頬にも熱いものが伝っているのが解る。
然し、その同情を庭に咲く花々に目を遣る事で紛らわすしかない自分が恨めしくて仕方が
なかった。
「うん、じゃ甲斐さん。そろそろ調律も出来上る頃だから、会場へ出掛けましょうか」
「はい」
茲からは専属マネージャーたるアンバサダーの働き処である。演奏家を促し簡潔に身
支度を整させ、舞台衣装や必用になる品を鞄に入れ、もう一度忘れ物はないかと確認を
させる。楽譜は、ネクタイは、靴は……。全ての準備が万端となり愈愈
「では、よろしく御願いします」
と、挨拶しミエコ邸の玄関から甲斐やんを送り出したのだった。
(つづく)
今日から何度かに渡って、19日の模様を書いて行こうと思います。
本当ならもう少し頭の中で数々の事供を整理し、熟成したいのですが、世界中の兄
弟姉妹、親類縁者の皆様の甲斐やんへのお気持ちを考え、敢えて書き進めることにし
ました。全く拙い駄文ですが、何卒御容赦ください。
※ ※ ※
木曜日に上京して以来、演奏会前の重圧に押しつぶされそうになって、練習以外の
自分の事も御座なりになり乍も、懸命に鍵盤と格闘している甲斐やんが疲労で腫れぼ
ったくなった眼を私に向け
「あのな、アンバサダーやん。俺が大阪でピアノを教えている子がいるんやけど、その
子電車が大好きやねん。先生、東京行くんやったらあっちで一番格好良い電車の写真
とか撮って来てくれへん、って頼まれて……。東京で今一番格好良い電車ってどんなん
やろ」
「そうさな、おいらが今一番気に入っているのは先月より小田急線で走り出した『青いロマ
ンスカー』だね。あれは格好良いぞ」
「そうなんか。俺、その電車に乗れるかな」
「おいおい甲斐の字、今そんな事考えちゃいけねえな。あたしがお前さんの代わりにその
写真でも何でも撮って来ようじゃねえか」
「ほんまに有り難う。若しよかったらその電車の絵葉書なんかがあったら買ってきて欲し
いんやけど……」
「おお、承知した。心配は要らねえよ。任せてもらおうじゃねえか」
「有り難う。安心したわ」
そう言い残し、練習を再開した甲斐やんの側で、洋ちゃんからこんなこと頼まれたので
す、とミエコさんに話した。
「甲斐さんて、本当に優しいのね。自分が今あんなに苦しんでる最中なのに……」
昨日頼まれた通り、19日9時13分北千住発の第21特別急行「メトロはこね」に乗り込
んだ。安閑とする間もなく車内の写真を撮ったり、デッキで発車音を録ったり、その新型車
両の模型をボイに持って来させたりしている内、町田に着いた。
車で駅迄迎えに出て呉れたミエコさんに
「洋ちゃん、昨夜は寝られたのかしら」
「余り左右でもなかったみたい……私もプログラムの構成や何かで」
「寝てないのですか」
「うん……でも大丈夫。アンバサダーさんだって寝られなかったんじゃないの」
「えへへ。どうも寝着かれなくって」
「やっぱりねぇ」
未だ朝の余韻を残す綺羅綺羅した街の風景が、今日は何処となく意地らしい。
「洋ちゃん、おはよう。例の物、茲に置くぜ」
「……」
一心不乱、何かに憑かれた様に鍵盤を叩く甲斐やんの背中には、苦悩と焦燥が渦を巻
いている。然し、叩き出す音色からは確実にこの数日間の成果が顕れていた。
「ミエコさん、洋平ちゃん随分よくなりましたね」
「そうね、そうよね……。あ、甲斐さん其処の処、もう一度ゆっくり弾いてみて」
と、尽かさずミエコさんはピアノに駆け寄る。ド・ソ・ミ・ソ……そうそう、一つひとつの鍵盤
をもっとしっかり押さえて……。
「……」
「其処、音が違ってます。甲斐さん、もっとゆっくり、ゆっくり弾いてみましょう」
「はい……。ああ、あかん。俺、あかんわ……」
「いいのよ、大丈夫。甲斐さん、一寸深呼吸してみましょうか」
苦しそうに天を仰いだ甲斐やんの目には明らかに悔悟の涙が浮かんでいた。気の毒で見
ているのが辛い。でもこれは表現者として今夜の主役として避けて通れない道なのだ。甲
斐やん、負けるな頑張れ、頑張ってくれ……私の頬にも熱いものが伝っているのが解る。
然し、その同情を庭に咲く花々に目を遣る事で紛らわすしかない自分が恨めしくて仕方が
なかった。
「うん、じゃ甲斐さん。そろそろ調律も出来上る頃だから、会場へ出掛けましょうか」
「はい」
茲からは専属マネージャーたるアンバサダーの働き処である。演奏家を促し簡潔に身
支度を整させ、舞台衣装や必用になる品を鞄に入れ、もう一度忘れ物はないかと確認を
させる。楽譜は、ネクタイは、靴は……。全ての準備が万端となり愈愈
「では、よろしく御願いします」
と、挨拶しミエコ邸の玄関から甲斐やんを送り出したのだった。
(つづく)
by yufuin-brothers | 2008-04-24 02:42 | 演奏会ア・ラ・カルト