川村英司独唱会~喜寿を記念して~
2007年 06月 30日
兄弟!
今夕は小林道夫先生がご招待して下さった『川村英司リサイタル-喜寿を記
念して-』に月島堂さんと伺いました。場所は東京文化会館小ホール。室内楽
には定評のある名門ホールです。
バリトンの川村先生が歌うリートの伴奏を、我等が道夫先生が受け持った
演奏会。喜寿、即ち77歳の歌手が唄った内容は
山田耕筰 鐘が鳴ります
滝廉太郎 荒城の月
G・フォーレ 漁夫の歌
A・デュパルク 悲しき歌
J・ブラームス 五月の夜
もはや君の許へは行くまい
風もそよがぬ、和やかな大気
-休憩-
F・シューベルト さすらい人が月に寄せて
孤独な男
竪琴に寄す
H・プフィッツナ― あこがれ
夜
庭師
H・ヴォルフ 「ミケランジェロの詩による3つの歌」
という盛り沢山てんこもり。若い歌手でもここまでは演りません。だって、大
変だもの(笑)。川村先生は、1950年代、まだ日本人が海外旅行なんて及
びも付かない時期にウィーン(漢字で書くと、維納)へ給付留学生として彼地
の音楽大学で研鑚を積まれた凄い人。そんな立派にジジイ(不遜です、ゴメ
ンナサイ)となった歌手がこのプログラムに挑もう、という処に価値があるの
です。
前半のプログラムも最後になった時、突如、川村先生が咳込んで仕舞いま
した。歌手が咳込む、それは曲の停止を意味します。流石の道夫先生も鍵盤
上の手を止められました。兄弟姉妹に見せたかったのは、その時の道夫先
生の対応です。
みんな、先生はどうしたと思います?
お答えしましょう。小林先生は微動だにしませんでした。泰然自若として、ま
ったく動じません。まるで、この情景を予期していたかの様にピアノの前でしっ
かと構えていらっしゃるではありませんか。そして、川村先生と目線が会うと
「川村さん、大丈夫。私がついていますよ」
と云わんばかりの笑みを送っていらっしゃいます。これ、これなんですよ!道
夫先生が伴奏の大家と云われる所以がここに垣間見られるのです。暫しの間
を経て、川村先生が大丈夫、という目配せを道夫先生に送ってから、最後の曲
が、それも頭からもう一度演奏されました。このプロ根性に、アンバサタは感
涙したのは、みなさんなれば解って呉れるでしょう。
休憩に入り、場外で一服していると、月島堂さんが
「川村先生、大丈夫ですかね。後半を歌い切れるかねぇ……」
「どうでしょうか。僕だったら緊張しちゃって舞台へ上がることさえ出来ません」
「そうだよね、ショックが大きいよね……」
さて、本ベルが無事に鳴った、ということは、川村先生がちゃんと後半をつ
とめられるという事です。その通り、独唱者と伴奏者は何事もなかった様に
舞台上で拍手を受けています。その姿にもそうですが、それからの先生の
素晴らしい歌唱に心からの尊敬しました。しつこい様ですが、だって、川村
先生は御歳77ですよ!特にヴォルフは、正に絶唱といって良かったと思い
ます。その歌声を聴いていると
「もう、明日は歌えないかもしれない。だったら、今を精一杯歌おう」
という、黄昏を迎えた現役歌手としての意気地がひしひしと伝わってきまし
た。その気概を一番感じていたのは伴奏者たる道夫先生でしょう。でも先
生は、全く手加減しません。其処にアンバサタは侍を見た気がした、といっ
たら皆さんは笑うでしょうか。
その後のアンコールでは、川村先生が大好きだという「浜辺の歌」が演奏
されましたが、それはまるで道夫先生と二人で、幼い頃のアルバムを覗い
ている様な和やかさがありました。全ての演目が終り、ロビーに出てみると、
川村先生と道夫先生がお客さんに挨拶をされていました。黒山の人だかり
を掻い潜り道夫先生に本日の御礼を言上しようとお傍に行くと先生が尽か
さず
「ああ、アンバサタさん。よく来てくださいました」
といって手を差し伸べて下さいました。兄弟姉妹よ、お察しの通り、それだ
けでアンバサタの背中は感激と緊張で汗びっしょり(笑)。
「先生、今夏も御手伝いに上がります。ですから何なりとお申し付け下さ
い」
「有り難う。じゃ、肉体労働をしてもらいましょうか。なんたってその体です
から」
といって、楽しそうに笑ってらっしゃる。その笑顔と、今までの演奏家として
の顔があまりにも違うのに、更に尚一層、小林道夫という芸術家の深淵さ
に圧倒されたのでした。
嗚呼、将に端倪すべからざるは小林道夫先生哉!!
今夕は小林道夫先生がご招待して下さった『川村英司リサイタル-喜寿を記
念して-』に月島堂さんと伺いました。場所は東京文化会館小ホール。室内楽
には定評のある名門ホールです。
バリトンの川村先生が歌うリートの伴奏を、我等が道夫先生が受け持った
演奏会。喜寿、即ち77歳の歌手が唄った内容は
山田耕筰 鐘が鳴ります
滝廉太郎 荒城の月
G・フォーレ 漁夫の歌
A・デュパルク 悲しき歌
J・ブラームス 五月の夜
もはや君の許へは行くまい
風もそよがぬ、和やかな大気
-休憩-
F・シューベルト さすらい人が月に寄せて
孤独な男
竪琴に寄す
H・プフィッツナ― あこがれ
夜
庭師
H・ヴォルフ 「ミケランジェロの詩による3つの歌」
という盛り沢山てんこもり。若い歌手でもここまでは演りません。だって、大
変だもの(笑)。川村先生は、1950年代、まだ日本人が海外旅行なんて及
びも付かない時期にウィーン(漢字で書くと、維納)へ給付留学生として彼地
の音楽大学で研鑚を積まれた凄い人。そんな立派にジジイ(不遜です、ゴメ
ンナサイ)となった歌手がこのプログラムに挑もう、という処に価値があるの
です。
前半のプログラムも最後になった時、突如、川村先生が咳込んで仕舞いま
した。歌手が咳込む、それは曲の停止を意味します。流石の道夫先生も鍵盤
上の手を止められました。兄弟姉妹に見せたかったのは、その時の道夫先
生の対応です。
みんな、先生はどうしたと思います?
お答えしましょう。小林先生は微動だにしませんでした。泰然自若として、ま
ったく動じません。まるで、この情景を予期していたかの様にピアノの前でしっ
かと構えていらっしゃるではありませんか。そして、川村先生と目線が会うと
「川村さん、大丈夫。私がついていますよ」
と云わんばかりの笑みを送っていらっしゃいます。これ、これなんですよ!道
夫先生が伴奏の大家と云われる所以がここに垣間見られるのです。暫しの間
を経て、川村先生が大丈夫、という目配せを道夫先生に送ってから、最後の曲
が、それも頭からもう一度演奏されました。このプロ根性に、アンバサタは感
涙したのは、みなさんなれば解って呉れるでしょう。
休憩に入り、場外で一服していると、月島堂さんが
「川村先生、大丈夫ですかね。後半を歌い切れるかねぇ……」
「どうでしょうか。僕だったら緊張しちゃって舞台へ上がることさえ出来ません」
「そうだよね、ショックが大きいよね……」
さて、本ベルが無事に鳴った、ということは、川村先生がちゃんと後半をつ
とめられるという事です。その通り、独唱者と伴奏者は何事もなかった様に
舞台上で拍手を受けています。その姿にもそうですが、それからの先生の
素晴らしい歌唱に心からの尊敬しました。しつこい様ですが、だって、川村
先生は御歳77ですよ!特にヴォルフは、正に絶唱といって良かったと思い
ます。その歌声を聴いていると
「もう、明日は歌えないかもしれない。だったら、今を精一杯歌おう」
という、黄昏を迎えた現役歌手としての意気地がひしひしと伝わってきまし
た。その気概を一番感じていたのは伴奏者たる道夫先生でしょう。でも先
生は、全く手加減しません。其処にアンバサタは侍を見た気がした、といっ
たら皆さんは笑うでしょうか。
その後のアンコールでは、川村先生が大好きだという「浜辺の歌」が演奏
されましたが、それはまるで道夫先生と二人で、幼い頃のアルバムを覗い
ている様な和やかさがありました。全ての演目が終り、ロビーに出てみると、
川村先生と道夫先生がお客さんに挨拶をされていました。黒山の人だかり
を掻い潜り道夫先生に本日の御礼を言上しようとお傍に行くと先生が尽か
さず
「ああ、アンバサタさん。よく来てくださいました」
といって手を差し伸べて下さいました。兄弟姉妹よ、お察しの通り、それだ
けでアンバサタの背中は感激と緊張で汗びっしょり(笑)。
「先生、今夏も御手伝いに上がります。ですから何なりとお申し付け下さ
い」
「有り難う。じゃ、肉体労働をしてもらいましょうか。なんたってその体です
から」
といって、楽しそうに笑ってらっしゃる。その笑顔と、今までの演奏家として
の顔があまりにも違うのに、更に尚一層、小林道夫という芸術家の深淵さ
に圧倒されたのでした。
嗚呼、将に端倪すべからざるは小林道夫先生哉!!
by yufuin-brothers | 2007-06-30 00:22 | 演奏会ア・ラ・カルト